映画「ある閉ざされた雪の山荘で」を観ました。
観ました・・・(噛みしめ)
観たら、居ても立っても居られなくなって、
みんな観てお願い観て頼むからこの気持ち共有させてというオタク感情が全開になったので、ひっさしぶりにブログ書いてみようと思う。
重岡くんもさ「反響が!反響を!呼ぶからぁー!!!」って言ってたし。
公開記念舞台挨拶での初見から1週間。全然余韻が醒めない。
それどころか、思い返すほどに「あれってもしかしてそういうこと?」が増えている。
※この後、広義のネタバレをしますので、まだ観てないよ!という方は、ここで一旦そっ閉じして!
人生の楽しみを、みすみす一つ逃すことになるから!
とりあえず回れ右して!
そして一度劇場に足を運んで、映画を観て、また戻ってきて!!
さて。
(いいですか?本当にいいですか?)
(戻るなら今)
(あと多分、観た人でないと、この興奮は伝わらないと思う)
(いくよ?)
(私がブログ書きたいーーーーーー!!!!!ってなった理由を一言で言うと)
二重構造・・・
三重構造・・・・・・
いや、
四重構造?!?!?!?!?!?
どこからどこまで!!!!!
フィクション!!!!!
はい。
あえて原作未読で挑んだので、初見では「伏線全部見破ってやるぞ、どいつが犯人だ?」ってキャストばりの疑心暗鬼で観ていた私。
ただ途中からなんとなく「あ、これ、推理ものと言うよりは・・・叙述トリック的なこと・・・なのかな・・・?」と思い始め、謎解きのシーンも比較的すんなり入って「はいはいはいはい、なるほどだからあの時あの人のあの表情があったわけね、うわーーーもう一回観たいーーー!」って、おそらく教科書通りのプチAHA体験。
映画オリジナルのラストシーンでは、俳優重岡大毅さんの真骨頂のひとつ「泣き」のお芝居をたっぷり堪能して、そのまま劇場に流れるFICTIONに鳥肌立ち、歌詞を噛み締め、重岡くんの「映画単独初主演」がこんなにも素敵な作品であったことに深く深く感動して、森羅万象に感謝・・・。
けど、なんだろう、なんか、まだちょっと引っかかるところが・・・・・・・・
が、ありがたいことに初見を六本木の公開記念舞台挨拶(朝の回)で迎えたので、余韻に浸る間もなく目の前に重岡くんが登場したことで脳みそが「しげおかくんかっこいい」以外の情報を処理できなくなってしまい、一旦この違和感、強制終了。
続きで観た、2回目。
今度は上映前キャスト登壇で、メディアの方も捌けていたので、とてもリラックスしたキャストの皆さんの空気を感じながら挨拶をほっこり見ていました。改めて中条あやみちゃんの等身が人間ではない領域だし、堀田真由ちゃんの透明感はもはや透き通って向こう側が見えるようだったし、森川葵ちゃんは右手で握ったら折れそうなくらい華奢だった(かわいい女子、大好き)
この人ら学園ドラマでも撮ったんかという空気感の良さの中、ずっとニコニコしている重岡くんがこの作品で得た刺激が、この先どんなふうに育っていくんだろうな、と思ったら、なんともしあわせな気持ちになると共に、私も自分の仕事をがんばろうっていうメラメラとした闘志も湧き上がりました。
話を戻して、上映開始。
1度目に知った「三重構造」の答え合わせの目線で観て、「カメラは、いいんじゃない?」って温子が本多に確認したのとか、話し込む本多と久我の姿を意味ありげにチェックする雨宮の視線とかを「ははあ〜〜〜!そうだよな〜〜〜〜!」って楽しむことができました。
だからこそ、それでも拭えないクライマックスの違和感がふたつ、初見以上にはっきりと自分の中に残った。
ひとつは、映画オリジナルのラスト、劇団水滸「ある閉ざされた雪の山荘で」公演のクレジットが「脚本:久我和幸」だったこと。
もしこれが、山荘での実際の4日間の後にそれを舞台化した公演であるならば、脚本は麻倉雅美か、少なくとも雅美(二重構造の脚本家)と本多(三重構造の脚本家)の連名であるべきでは・・・・?
もうひとつは、(おそらく重岡くんのオタクにとってはこのシーンこそが本作のベストシーンだろうと思うのですが)舞台袖で本多が「久我、ありがとな」としみじみ声をかけて、久我が涙ぐむ場面。
これは、久我が山荘で謎解き役を果たし、雅美と劇団メンバーの歩む道を一つに取り戻してくれたことへの「ありがとう」と受け取ることももちろんできるんだけど・・・
それにしても久我、そんな泣く・・・?
(もちろん役者重岡大毅くんの素晴らしいところが全部その視線やうるむ目や所作ひとつひとつに出てて、最高の前提で)
ここで、頭の中に、それこそ雷みたいな
ピシャーーーー
てひらめきが・・・・・
え・・・・
もしかして、そういうこと・・・・・?
え、私だけ気づいてなかった・・・ってコト・・・?(混乱のあまりちいかわ化)
私たちが「雅美のための三重構造のお芝居」として見てきた山荘での四日間は、
そもそも全部が「“雅美のための三重構造のお芝居“・・・というストーリーの、劇団水滸の作品」
つまり「劇中劇」だった・・・?
そう思って振り返ると、
謎解きシーンで初めて姿を見せた雅美の言葉や振る舞いが、妙に「舞台芝居」めいてるなと思ったし・・・(森川葵ちゃんのお芝居のタイプなのかな?そうだったっけな・・・?とか思っていた)
飯塚監督やキャストが度々インタビューで見どころとして触れている「間取り図の上を役者全員が同時に動く」演出、あれも・・・「舞台作品の転換のシーンみたいだなー。半分暗転しながら、役者はあちこちで芝居してて、ステージが回るやつ・・・(のほほん)」などと思っていたんですけど・・・全てが劇中劇で、本当に「舞台作品」であることを暗示してた・・・ってコト・・・・・?!(再ちいかわ化)
どこからどこまで!!!!!
フィクション!!!!!
鳥肌。本当に私が鈍いだけだったらお恥ずかしいのですが、2回観てやっとこの感じになって、もうゾワッゾワした。
少し時間をかけて考えた今は、
「雅美と劇団メンバーに起こった事故と怪我」まではノンフィクションで、そこから精神的にずっと立ち直れない雅美を救うため、本多が久我に頼んで(あるいは雅美の芝居の才能にオーディションで惚れ込んだ久我が自ら)雅美主演の、雅美の心の闇を昇華させる作品としての「ある閉ざされた雪の山荘で」を書き上げ、上演にこぎつけた。
そのお礼としての、本多の「・・・久我、ありがとな。」だった、みたいな解釈、世界線もありかなあ、と、思ったりしています。
もちろんこれは全然いちオタクの虚妄で、やはり基本的には「三重構造」というのが(原作もそうだし)映画としては正解だと思う。
ただ、パンフレットをしっかり読むと、飯塚監督がサラリと「山荘で起きたことのすべてが“演劇”だった、ということでもいいと思いまして。」とおっしゃっていたので、観た者の解釈としてはあらゆることが許されているのかな、と。
これがすごく私の肌に合ったので、嬉しくて、ブログを書くことにしました。
最近、ドラマでも、考察合戦みたいなのがヒットの仕方(させ方)の一つになってて、「SNSであの時点で正解を出していたアカウント」がめちゃくちゃ持ち上げられたり・・・うまいこと、人の承認欲求とか、感情を共有することで生まれる興奮とかを掴んだマーケティングがあると思うんだけれど。
これも今の時代ならではの楽しみだなって納得する一方で、私は「観た者の数だけ解釈があってもいいんじゃないか」みたいなことも思う時があって。
なのでこの「ある閉ざされた雪の山荘で」の映画版が取ってくれた「最後の味わい方を受け手に一任してくれる」スタンスというか、懐の深さ、みたいなものに、とてもぐっときました。
原作と違うラストではあるけれど、そういう「受け手に委ねる」スタンス自体が、小説っていうエンターテインメントと通ずるところがあって、いいなあ・・・と。
ということで、3回目の鑑賞では「四重構造」の世界線から、いろいろまた観て見たいと思う(結果、新しい解釈が生まれるかもしれないことさえも、楽しみです。)
重岡くんの「映画単独初主演」が願っていた以上の素敵な作品で、2024年、いい予感しかない(ツアー早よ・・・!)
重岡くんを通じて素敵なエンターテインメントにまたひとつ触れられてうれしいな。
まだまだ観るし、みんな、まだまだ観に行こ!